魁流は、空を見上げたまま黙った。
こんな言い争いなど、したいと思った事はない。いや、言い争いなどといったレベルでもないだろう。これはただ意見を交換しているに過ぎない。だが魁流は、このような会話ですら、したいとは思わなかった。だって、どうせ自分の意見が通るはずなんてないんだから。
我の強い母親が主張する意見を、ただひたすらに受け止めてきた。反論するにはとても大きな労力を必要とし、魁流には億劫なだけだった。
言い争いなんて、したくない。醜くて、そして疲れるだけだ。
冬のような春のような、どちらとも曖昧な風が流れる。乾いた土の香り。まだ十分寒いと感じる空気を通して、澄んだ夜空に少しだけ星が見える。
「人と争うのは、好きではないの」
唐草ハウスの縁側で、空を見上げて鈴は呟いた。
「世の中がみんな私たちのようになればいいのに」
そんな事、あるワケがない。世の中にはいろんな人が生きている。同じ人間なんて一人もいない。同じではないのだ。考え方や意見が違っていてもおかしくはない。そういった人間と意見を交換しなければならないのは、生きていく上では当然だ。他人の意見を聞き、自分も意見を言わなければならない。
なのに鈴も魁流も、それを避けた。世の中のすべてが自分たちと同じように考え、同じように生きてくれればいいのにと願っていた。ただ、願う事しかしなかった。
お星様に願い事をして、あとは幸せが来るのを待っている。願っても、何も解決などはしないのに。
「俺は、我侭この上ない人間だ。自分の事しか考えていなかった」
「そんな事無いよ」
「お前の中の理想の兄を壊してしまうようで申し訳無い。でも、そうなんだよ。俺は、お前の事など一度も考えた事は、ましてや気遣った事など、無い」
ツバサは無言で唇を噛み締める。
そんな二人の姿に呆れたような視線が向けられる。
「涼木、一つだけ、聞いておきたい」
「何だ?」
もう、何を言われても構わない。
ぼんやりと答えたまま視線も向けてはこない相手に、慎二は小さく溜息をついた。
「涼木、お前は今日、どうして俺のところに来た?」
「え?」
今度は、思わず視線を向ける。
「どうしてお前は、俺のところに怒鳴り込んできた?」
それは、自分の居場所が妹に知れたのは彼のせいだと思ったから、だから、それが許せなくって。
「腹を立てて抗議に来たのなら、別にこんなところにまで付き合う必要など無いだろう?」
軽く両手を広げる。
「お前は本当は、俺に抗議をする口実で、妹の事を俺から聞きだそうとでも思っていたんじゃないのか?」
「え?」
ツバサの目が丸くなる。
「涼木、お前は本当は、妹の事が気になっていたんだろう? もう過去など捨てたつもりでいたのかもしれんが、心のどこかでは、いつかは再会したいと思っていたんじゃないのか? 再会できた事を、嬉しく思っていたんじゃないのか?」
「まさか」
「そうか? 俺にはそう見える」
小首を傾げると、金糸が揺れる。
「お前は、妹の事を嫌い、疎ましく思い、見下していながら、どこかでは好意も抱いていた」
そこまで言って、上目遣い。
「どこかの誰かとよく似ている」
そうして、再び魁流を見下ろす。
「兄妹が似ていても別に不思議ではない、か」
「あっ」
ツバサは思わず声をあげ、その口を片手で覆った。驚きの中に期待と、だが不安も潜ませながら兄を見る。魁流は黙ったまま。だがやがて、その口元に薄っすらと笑みがのぼった。それは、自虐や自嘲や、怠惰ゆえなどといった感情ではない。
俺とツバサは、似たもの兄妹。
「ハハ、ハハハッ」
笑えてくる。
俺は、妹の事が嫌いで、好きだった。
妹がそうだったように。
「俺は、感情をぶつけてくるお前が羨ましかった」
魁流は、顎を引いた。真っ暗な地面で、雑草が揺れている。
「俺には決してできない事が、お前にはできた。それが羨ましかった。羨ましかったし、妬ましかった。嫉妬していたというのなら、それは俺の方だ」
「そんな事は」
「ツバサ、お前は、自分を恥じる必要は無い。恥じるなら、それは俺の方だ。だから、俺に憧れるなんて事はするな。お前はお前のままでいい」
「そんな」
「いいんだ」
強引に遮って、両手をツバサの両肩に置いた。
綺麗な瞳だと思った。こうして妹と向かい合う事など、本当に久しぶりだと思った。もう二度と無いと思っていた。
ずっと避けてきたから。
「そのままでいい。好きだという感情も、嫌いだという感情も、そのまま出せばいいんだよ」
「でも」
「気に入らないならぶつかればいい。背を向けて逃げるより、よっぽどマシだ」
俯き、少し体重をツバサに預ける。
「そのままで、いてくれ」
そのままの、憎らしいほどに真っ直ぐなままで。
自分よりもよっぽど立派だと思っていた兄にそんな事を言われ、ツバサはどうしてよいのかわからず戸惑った。
どうしてこんな事になったんだろう? 私、こんなはずじゃなかった。お兄ちゃんに教えてもらいたかった。背を伸ばして真っ直ぐに前を向くお兄ちゃんを見たかった。そんな姿を見れば、自分も変われると思っていた。
それが、どうして? どうして兄が、兄がこんなにも弱くて、儚い?
「お兄ちゃん、私」
私、いいの? もっと自分に自信を持ってもいいの?
どうしてよいのかわからず言葉を出し倦ねる妹に顔を向け、そうして上体を起こし、両手を離した。
「散々だな」
苦笑する。
「こんな醜態を、こんな大勢の前で曝すことになるとは思わなかった」
言われてツバサは振り返る。どうしてよいのかわからず上目遣いやら肩を竦める美鶴と聡と瑠駆真。バツが悪そうにそっぽを向く蔦康煕。呆れたように指を二本ほど額に当てたユンミは、指先に付いた油っこさに慌てて鏡を取り出す。
やっぱり、テカってるし。
「あ、あの」
急に小っ恥かしさが沸き、オロオロとツバサが言葉を考えている間に、魁流はそっと傍を離れる。それに気付いて、慌ててツバサが呼び止める。
「お兄ちゃん」
「帰る」
「帰るって」
「寒くなった。それに、これ以上よく知りもしない人間の前で恥を曝すのは御免だ」
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